大戦場に赴くだけが、「闘い」ってわけじゃーないんだぞぃ 如水な動き
慶長5年、岐阜(関ヶ原)で天下分け目の大戦(国を挙げての大騒動)がはじまった。あら、大変。
普通に考えれば、何かしなくちゃあかん気になって、今すぐにでも岐阜に行って、合戦に参戦したくなる。強いやつほど、そー思うはずだ。(しょせん、世の中、「子供のサッカー(参照)」なんよ。)
ところが、黒田如水っちゅう男は*1、岐阜から400Kmも離れた大分(石垣原)で挙兵し、岐阜とは反対に向かって進軍しちゃった。(あらっ)そこんとこの事情を見てみましょ。
ます、関ヶ原の戦いってのは、東軍と西軍の戦いだね。いいね(wikipedia:関ヶ原の戦い)ちなみに、徳川家康さんは、東軍ね。
そんで、黒田如水のところに、西軍からの応援要請が届いた(らしー*2)
如水、考えた。
その末、周りの人たち集めて、軍隊作った。(ここで、とっても重要なのは、本当の兵隊たち(一軍)は、息子の長政ってのについて行って、すでに関東の方へ行ってたの。だから、如水じいさんが軍隊を作るって言ったって、補欠と二軍で編成するっきゃ、なかったんよ。*3)
そんで、集まった軍隊を引き連れて、岐阜へ向かうんじゃーなく、九州で暴れまわった。九州にいる西軍を攻撃開始したの。*4しかも、めっぽう強くて、相手をがんがん打ち負かしちまったってんだから、驚きね。二軍なのに。
この行動について、
この機会に隣国を攻略し、少しでも所領を拡大しておこうとした
・・・
九州を平定して家康と互角に対峙するつもりだった
http://www.m-network.com/sengoku/sekigahara/ishigakibaru.html
と言われることがある。つまり、東軍と西軍のどちらにも加担せず、むしろ、ポスト関ヶ原を見越して、そこでの優位な立場を模索したとされてる。その結果、まずは、敗者になるであろう西軍を攻撃して、少しでも領地を拡大しておこーと思ったんだとさ。
まぁ、彼のホントの動機なんてーもんは、わからん。そんなもん、詮索してもしゃーない。
ただ、いずれにしろ、西軍が負けて、東軍(徳川家康)が勝つ、ってことに賭けて、行動を起こしたことは確かっぽい。そこの読みと、その読みに基づいた信念の行動がすごいわけさ。このじいさん。
ってなわけで、結局何が言いたいのかっちゅうと、
「如水な動き」に、少しでも意味があるとすれば、それは、こーゆーこと。
みんなね、ほっとくと、できるだけ大きな闘争に、直接身を投じよーとすんの。
でも、それは、子供のサッカーやぞ。
わしらの闘いは、いつでも、局所的だ。
ただし、
(1)大きな闘いの行く末を正しく理解した上で、
(2)自分が闘うのは、あくまで、ご近所でだ!
ってこと。ここは、見誤っちゃいけない。
大戦場に赴くだけが、「闘い」ってわけじゃーないんだぞぃ
しかも、大戦場に赴かないことが、裏切りでも、弱虫でもなんでもなく、
如水の[動き]が九州で味方の少なかった東軍の優位を決定づけ
wikipedia:石垣原の戦いたわけで、とても重要な役回りなんよ。
というわけで、だれが何と言おうと、今日も、ご近所の闘争にいそしみましょ
ってこと。