simpleA記

馬にふつまに 負ほせ持て

ウソかホントか


今日も、和風にいきませう。


前回、西行さんの「山深くさこそ心は通ふとも すまであはれを知らんものかは」という歌を見ました。これは、『新古今和歌集』収録だって言ったんだけど、別のところにも出現すんです。今日はそのことについて。


その昔、明恵上人(みょうえしょうにん)*1っておじさんがいました。この人のことについて書いた『明恵上人伝記』ってのがあんだけど、ご存知かしらん?


その伝記をぼんやり眺めていると、

どーもー、僕、喜海っていう若造でーす。


僕、ずっと明恵さんとこで弟子してんですが、西行さんってじいさんが、なんでか知らんけど、よく来るんだよねぇ。うんちゃらかんちゃら、講釈たれて、最後に歌まで歌ってったよ。


♪♪♪ すまであはれを、うんちゃらかんちゃら〜 ♪♪♪


だってさ。なかなか、いい歌じゃーん。

ってな部分があって、あの西行さんの名作が出て来るんです!正しくはhttp://www.saigyo.org/cgi-bin/cr2.cgi?myoe-txtを見てね。*2


さて、この伝記について、歴史学者である平泉さん*3は、こう申す。

『伝記』には、西行法師が常に来て上人と物語りして、自分の作る歌は、単に花鳥風月を詠むのではなく、皆これ真言なりといったとあるが、これはとうてい正しい史実ではあるまい。


・・・・


この話の全く信じられないものであることは明瞭である。


明恵上人伝記 (1980年) (講談社学術文庫)

というわけで、この伝記のこの部分、ウソっぱちなんです。


ところが、世の中、ウソかホントか、なんて、どーでもいいんです*4

何につけ疑ってみるのはいいことだが、[この伝記のこの部分はウソっぱちなんだ]というだけで安心してしまうのも発展性のない話である。


西行 (新潮文庫) p.13


じゃ、発展性のある話ってのは、何かって言うと、このウソ話を誰がどーして作ってしまったのか、ということを想像することである(らしい)。

[たとえウソっぱちだとしても、こんだけの美しいウソを作るってことは]その誰かはよほど西行を理解していた人物・・・に違いない。その上すぐれた文章家でもあった。・・・もともと西行は伝説の多い人物で、虚実の間をすりぬけて行くところに彼の魅力がある。・・・虚空の如き心をもって俯瞰するならば、そこには虚も実も存在しない。西行に近づくには、そういう方法しかないように思われる。*5


西行 (新潮文庫) p.13


そして、

たとえこの[部分]が[ウソ]であるにせよ、・・・偽作者は、[西行と明恵の間にある大変よく似た素質]に気づき、どうしても右の一文をくわえたい誘惑にかられた、というより、義務のようなものを感じたのではあるまいか。


西行 (新潮文庫) p.13

とのことらしい。


というわけで、本日のところ、何を申すものかと申すと「再三ご紹介しておる 『西行 (新潮文庫)』という本、これはね、私が12年も前に買った本なの。現在、うちの本棚って、10冊くらいしか入ってないんだけど、そのうちの一冊なの。私は白洲さんの「発展性のある話」がとても好き。世の中、ウソかホントか、なんて、どーでもいい。一番大事なのは、ウソというほころびから見えてくる「あちら側」なんじゃーない。白洲さんは私にそう教えてくれたんです。そして、虚実の間をすりぬけて行くネット世界へ近づく方法を教えてくれたんですぅ」ってことでござる。

*1:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%81%B5

*2:ただし、ちょっとだけ、違うんです。「は」とか「を」とかちょっとした部分が。

*3:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E6%B3%89%E6%B4%B8

*4:小林秀雄ベルグソンについて書いた部分にも、そー書いてありました。(たぶん)

*5:ネットというとこは、虚実の間をすりぬけて行くところに魅力がある。虚空の如き心をもって俯瞰するならば、そこには虚(バーチャル)も実(リアル)も存在しない。ネット世界に近づくには、そういう方法しかないように思われる。