simpleA記

馬にふつまに 負ほせ持て

ドブねずみをとっちめて

寅年なのに、アレだけど、昔、ドブねずみ(rat)を訴えた奴らがいたらしい。


比喩でも何でもなく、本当に、「あのドブねずみたちが悪いことをしたから、とっちめて欲しい」と、裁判所に訴えた奴らがいたらしい。


でも、まだ、驚くなかれ。


この裁判の弁護を引き受けた弁護士なんてもんまでいたらしい。


ところが、まだまだ、驚くなかれ。


この裁判、結局、事実上、弁護士の勝利、つまり、ドブねずみが勝利したらしい。


とりあえず、新年なので、ここらで一息ついて、驚こう。えーーーーー!ドブねずみが裁判に勝った!!!!???



さて、気を取り直して、順を追って見て行きましょ。Internet Archiveのオンラインブックで確認しましょ。http://www.archive.org/details/cu31924021236017 *1


今から100年以上も前に、こんな本が出ました。

The criminal prosecution and capital punishment of animals
動物相手の刑事訴追と死刑について



この本の第1章の冒頭で、こんな話が紹介されてんよ。

IT is said that Bartholomew Chassenee, a distinguished French jurist of the sixteenth century (born at Issy-l'Eveque in 1480), made his reputation at the bar as counsel for some rats, which had been put on trial before the ecclesiastical court of Autun on the charge of having feloniously eaten up and wantonly destroyed the barley-crop of that province. On complaint formally presented by the magistracy, the official or bishop's vicar, who exercised jurisdiction in such cases, cited the culprits to appear on a certain day and appointed Chassenee to defend them.

というわけで、「聞くところによると*2、フランス人のChasseneeさんは、ドブねずみたちの弁護をしたことで有名らしい。ドブねずみたちは、畑の作物を食い散らかした罪を問われたらしい。奉行所は、ドブねずみたちに対して指定した日に出廷しろと命じ、Chaseneeさんに弁護するよう命じたらしい」ということだそーです。


これを受けて、Chaseneeさん(弁護士)は、まず、

He urged, in the first place, that inasmuch as the defendants were dispersed over a large tract of country and dwelt in numerous villages, a single summons was insufficient to notify them all

というわけで、「おいおい、ちょっと待っておくんなせー、お奉行様。ドブねずみってのは、あっちこっちに散らばって住んでるわけやし、出頭命令1通出したところで、周知徹底することなんてできませーんがな」と泣きながらに訴えた。


その結果、

he succeeded, therefore, in obtaining a second citation, to be published from the pulpits of all the parishes inhabited by the said rats.

というわけで、奉行所は、「しゃーないなー。ほな、そのドブねずみたちが住んでる市町村すべてから、出頭命令を出させましょ。それなら、文句ないよね?」と言い返したとさ。やるね。


Chaseneeさん困った、追い込まれた。ところが、困ると閃くもんなのね。(漢字もどことなく似てるしね。*3


Chaseneeさんは言った。

he excused the default or non-appearance of his clients on the ground of the length and difficulty of the journey and the serious perils which attended it, owing to the unwearied vigilance of their mortal enemies, the cats, who watched all their movements, and, with fell intent, lay in wait for them at every corner and passage. On this point Chassenee addressed the court at some length, in order to show that if a person be cited to appear at a place, to which he cannot come with safety, he may exercise the right of appeal and refuse to obey the writ, even though such appeal be expressly precluded in the summons.

というわけで、「お奉行様がそこまでおっしゃるなら、謹んで出頭させたいのですが、なんせ、猫という邪悪なやつらがですね、道中、てぐすね引いて待ち伏せしてまして、かなりヤバーい状況なんですよぉ。あなたもイヤでしょ、ピラニアの待つ川に飛び込むなんて。なんで、まず、猫さん全員に、その日は家にいるように命じてくださいな*4。さもなければ、いくら出頭命令といえども、クライアントの身を案じて、出向かせるさせるわけにゃ、いきませんぞょ。それとも何ですかい、訴えられたってだけで、命まで奪おーって言うんですか?」と、一世一代の見得を切ったんじゃ。


ここで勝負あり!さすがに全部の猫に家にいろと命じることもできず、裁判は成立せず、無期延期に持ち込まれたよーなんです*5。ということは、事実上、弁護士は、この裁判において、「クライアントの利益を守る」という意味において、勝利を収めた、というわけですねー。



さて、ここで話が終わってしまったら、シンプルの一分が立ちませぬので、もう少し、考察を続けましょ。


まず、ドブねずみを訴えるなんて、新年ソーソー、ご冗談かと思うでしょ。確かにバカげてるわけで、2009年の年始にも登場してもらった「民法の父」こと穂積さんもこー申してるよ。

このように、動植物・・・に対して訴訟を起[す]・・・というのは、甚だ児戯に類したことのようである


http://www.aozora.gr.jp/cards/000301/files/1872.html

というわけで、穂積さんの目にも「へそが茶を沸かす」そーです。


ところが、穂積さんは続けて、このへそ茶な訴訟がなぜ起きるのかってことについて、

けれども、害を加えた物に対して快(こころよ)くない感情を惹起(ひきおこ)すのは人の情であ[る]

と言っていて、さらに続けて、

刑罰は社会の目的のために存しているという。なるほどそれには違いないが、その目的の中には、直接被害者たる個人、およびその家人、親戚並に間接被害者たる公衆の心的満足というものをも含んでいることを忘れているのは、確かに彼らの欠点である。形こそ変れ、程度こそ異なれ、木を斬罪(ざんざい)にし、牛を絞刑(こうけい)にし、「子のあたまぶった柱」を打ち反(かえ)す類の原素は、文明の刑法にも存してしかるべきものである。いわゆる「正義の要求」とは、この心的満足をいいあらわしたものではあるまいか。学者は、往々この情性を野蛮と罵(ののし)って、一概にこれを排斥するけれども、これ畢竟刑法発達史を知らず、且つまたこの報復性は、種族保存に必要な情性であって、これあるがために、権利義務の観念も発達したものであることを知らないからである。

と言っていて、要は、「見た目、馬鹿げてるんだけど、見た目ほど、馬鹿げてもいないんだよ」というわけ。ずいぶんと、「正義」と「乙女心」というものは、複雑なのね。


話のまとめとして、このドブねずみ騒動を四捨五入して大まかに描くと、

(1)裁判は、言い争いで勝負をつけることもありだけど、弁護側としては、言い争いが成立しないように、あーでもない、こーでもないと難癖をつけて、裁判そのものを無効にすることだってありなんだね。


(2)訴訟なんて、端から見れば「へそ茶」にしか見えない場面が、多々あるんだけど、でも、権利だとか義務だとかについて考える契機になるんだね。

ということではないでしょか?


ところで、私の理解が正しければ、過去数年にわたり、Googleというドブねずみが、書籍の電子化をめぐり訴えられてるよーだね。出版畑の作物を食い散らかしたかららしーんだけど、悪いことをする奴がいるもんだね。ドブねずみをとっちめてやれ。


ところが、裁判の様子を見ていると、Chaseneeさんと裁判所の会話を再現しているかのよーで、この人たちは一体全体、何で争ってるんですか?と首が傾げて、元に戻らんよ。


さらに、訴えている出版社たちは、真剣、深刻なんだろーけど、端で見てると、へそ茶な場面*6がちらほらと・・・。


ってなわけで、結局何が言いたいのかって言うと、「このへそ茶裁判がどのように進んでいこうがいこまいが、どのように決着しようがしまいが、すでに、数百万冊の本が電子化されて、ネット上で公開されてんの。さらに、OCRにかけられたテキストデータは、あれこれ解析されて、すでに全く異なる別物に加工されて、出荷されてんの。そんな中、このへそ茶裁判に何かしらの意味があるとすれば、それは、権利/義務、自由/責任だとかゆー言葉を、私たちが理解してるよーで、実はぜーんぜん理解してないじゃんってことを思い出させてくれるキッカケを与えてくれる*7、ということ、ただそれだけ」ってこと。


新年ソーソー、ご清聴ありがとさん。

*1:ちなみに、このブックは、米国コーネル大学の蔵書を、マイクロソフト社のスポンサーにより、Kirtas社がAPT2400というマシンを使ってスキャンして、Abbyy社のOCRで変換したもんなんだよ

*2:あくまで伝聞なので、妄信はやめときましょ

*3:似てないか

*4:ってな感じで、まるで一休さんのトラ退治のよーなオチだけど、やっと寅年らしくなってきた

*5:でも、もう一度断っておくけど、伝聞だし、しかも、裁判結果については、記録が残ってないらしーので、そこらへん、真剣に考えないよーにね

*6:出版社が、というより、ある特定の作家が、と言ったほうが良いかしらん

*7:「自由」について、私たちがホントはあんまし理解してないじゃーん、を参照してね http://d.hatena.ne.jp/simpleA/20090117