心が澄み渡るまで
今日は、和風にいきましょ。
その昔、『新古今和歌集』というもんがあって、その中に、
山深くさこそ心は通ふとも
というのがある。西行(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E8%A1%8C)さんが作ったもん。
意味としては数説あんだけど、下川さん(id:Emmaus)が
知るには考えるよりもそのところに行くこと、趨ることでしょう
と要約した梅園の名ゼリフ
欲識華 與先繙華譜 急趨華圃
(花を知るなら、図鑑じゃないよ、畑だよ)
に似たよーなことと考えるのがひとつ。この場合、「すまで」を「住まで」と解し、「住んでみなけりゃわからりましぇーん」としてるんでございます。全体の意味としては、
山深くわけ入って、どんなに想像をたくましうしようとも、実際に住んでみなくては、その哀れを知ることはできない
『西行 (新潮文庫)』p.12
ということで、まぁ「さぁ、飛び込んでみなさーい」みたいなこと。
もひとつの考え方は、
深く深くこころをかよわせたとしても,その人と同じ気持ちになりながら,一方で,情に流されず,冷静にその人のこころを知ろうとすることができなければ,こころはわからないもの.
http://www.sme.nitech.ac.jp/sumi/SUMI_thinking.html の 「2002年 3」より
というもので、ひとつ目の解釈とはちょいと異なるわけなんですぅ(特に後半が)。なんでこんなことになってるかと申しますと、「すまで」ってところを「住まで」と「澄まで」を引っ掛けてんだよと考えるからでありまーす。住んでみる(≒共感する)のもいいけれど、「理知的に客体化して理解すること」も重要でしょー、という意味と取ると、こんなことになるらしい。
というわけで、本日のところ、何を申すものかと申すと「私は文学者でないんで、役に立ちゃー、どの解釈だっていいんです。でも、個人的には、「すまで」の部分は、「中に飛び込んでみて、心が澄み渡るまで」というような感じで考えてるんです。水面にぽちゃんと水滴が落ちるでしょ。しばらく波紋でザワザワするわけ。しばらくすると、もとの静寂を取り戻し、いつの間にか水面は澄み切るんよ。そんなイメージで、私は何事にもポチャンと飛び込むの。そして、心が澄み渡るまで、ただじっとしてんの。そーすると、もののあはれ(世の仕組み≒モデル)が見えてくる気がすんよ」ってことでござる。