simpleA記

馬にふつまに 負ほせ持て

老婆は12ペソだといったという

フィリピンの町かどで・・・ある老婆がバナナを10本ならべて道行く人に売っていた。ある人が1本いくらかと聞いたところ、1ペソだという。そこでこの人が、全部つまり10本いっぺんにくれというと、なんと老婆は12ペソだといったという。(p.34)


クリフォード・ギアツの経済学―アジア研究と経済理論の間で (社会科学の冒険 (4))


この「不思議」について、ちょいと有名な経済学者、東畑さん*1はこー考える。

おばあさんは売る時にぺちゃぺちゃしゃべりながらお客さんとやっているんだ、売買は楽しみなんだね。いっぺんに買ってしまうと彼女の楽しみを奪ってしまうんだ。・・・(だから)その分を補償しなければならないということになってくる。1つずつなら合計10ペソであるべきものが、一度にすますと12ペソになるのは、こうだからというのがぼくの説明なんです。(p.34)


さらに、東畑さんは、口がすべったのか知らんけど、のんきに、こー続ける。

日本なんかでは・・・バナナの十の山をいっぺんに売れと言われれば9ペソにするかもしれないんです。こうした行為によって余ってくる時間を他の楽しみに充てうるのであるが、フィリピンではそれができない。そういうことに文化ないしはその発展の段階の相違がみとめられるであろう。(p.35)


さすが、東畑さんらしく、言っていることがめちゃくちゃ。


もし(彼の言うとおり)、「余った時間を他の楽しみに充てることが、フィリピンではできない」のであれば、2ペソ多くもらったところで、何の慰めにもならん。なので、最初の説明はちょいと変ちくりん。


さらに、日本でまとめ売り価格を9ペソにすんのは、「バナナ売りしてて一番怖いのは、売れ残ること。だから、まとめてぜーんぶ買ってくれるなら、安心できる分、おまけしちゃうよ」ってことか、「まとめ売りってので余る時間で、さらに別の仕事できるから、まぁおまけしちゃいましょ」ってこと、などなど。フツーの日本人の生活*2に照らして考えてみると、決して、「他の楽しみに充てうる」ほど、優雅じゃなーい。文化的じゃなーい、のではないかしらん?


しかーし、めちゃくちゃだから、いけないよ、ってアホなことが言いたいわけじゃない。(むしろ逆。)そもそも、フィリピンに、こんな老婆がいたのかどうか、さえ、定かではなーい。あまりにも、非科学的な記述なんだから、それをめぐって、目くじら立てて話をするよーなもんでもない気がすんだけど、私がこの「不思議」に出会ってから約10年過ぎるけど、いまだに、「何で12ペソなんだろ?」と考え続ける。そして、この「不思議」が、個人的な信条の中心部分を占めていると感じるときがアール。


ここで、ちょいと長いけど、原さんの解説を引用しときましょ。

(「経験的多様性への嫌悪」にもとづく)「形式化」への志向は、ともするとわれわれを教条主義に導きかねない。だからといって、前にのべたように、われわれは「形式化」への志向そのものを完全に捨てさることはできない。「形式化」への志向を捨てさることなく、同時に対象社会のもつ「個性」を豊かにつかまえることができるような知のあり様。それにむかう論述は、どうしても互いを異物として排除しあう二つの知の方向を同時につつみこんだ不安定な構造をしたもにならざるをえない。(p.37)

ってなわけで、ちんぷんかんぷんな古語を、分かりやすーい現代語に翻訳すると、「誰だって、シンプルにしたーいって願望はあるよ。ところが世の中、いろんなもんが複雑にからみあってるわけじゃん。だから、のらりくらりと生きてくためには、シンプルに考えつつ、でも例外も許容してかなきゃならん。そんな都合の良い「いい加減さ」が必要なんじゃねぇかな」ってこと。


ってなわけで、結局何が言いたいのかって言うと、「東畑さんのとんちんかんな解説を読んで、その矛盾に気付かないってのはあかん。でも、その矛盾を楽しめないよーじゃ、もっとあかん。老婆は12ペソだといったという。私の中では、これはいわゆる格言なんだ*3と理解して、シンプルへの戒めとかなんちゃらだと思ってんよ」ってこと。

*1:こんなもん訳した人、http://www.amazon.co.jp/dp/4003414713/

*2:仕事が早く済めば、早く帰宅しまーす、なんてことにはならんでしょ?

*3:その真偽が問題なんじゃなーい、それを聞いて、どー思うかが重要なんだ、って意味において